二人目不妊を経験したご家族のお話を紹介する本連載。今回は、2人のお子さんをともに体外受精で出産された米村勇太さん、美佐恵さん(仮名)のストーリーです。
勇太さんが28歳、美佐恵さんが27歳だったときに結婚されたお二人は、第一子の不妊治療開始から出産にいたるまで約4年、第二子の際は約2年という歳月がかかりました。その間、6度の病院の変更を経験したと言います。

前編となる本稿では、20代での不妊を全く想像せず、予期せず不妊治療を開始し、周囲に相談しないまま、約4年に及ぶ不妊治療を行った1人目の出産に至るまでのお話を紹介していきます。

(動画のご紹介)
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〝ブライダルチェック〟をきっかけに不妊治療へ

「避妊さえやめればすぐに妊娠するものだと思っていたので、結婚してから1年ぐらいは夫婦2人だけの時間を楽しもうと言っていました」(美佐恵さん)

「子どもができるかできないか、みたいな不安は一切なかったです。それどころか、そんなことを考えることすらありませんでした」(勇太さん)

お二人のこの言葉にも表れているように、自分たちが不妊治療という長い道のりを歩むことになるなんて、露ほども想像していなかったそうです。
転機が訪れたのは、どこかで見かけた「ブライダルチェック」に、なんとなく行ってみたときのことでした。気軽な気持ちで訪れた近所の産婦人科クリニックで言われたのが、「AMH値が低いですね」という言葉だったと美佐恵さんは言います。

「当時は、AMH値なんて言われても何のことだか全くわかっていなくて。それでもAMH値が低いということで、『タイミング法から始めてみましょう』と言われ、あっという間に不妊治療が始まりました。なんか、もうベルトコンベアーに乗せられたような感じで」

当ラボでも何度か登場している「AMH」とは、「アンチミューラリアンホルモン(または抗ミュラー管ホルモン)」のこと。この数値を調べることで、自分が妊娠できるおおよその残り期間を知ることができると言われています。
このAMH値が「40代前半くらい」と言われた当時28歳だった美佐恵さんと勇太さんの2人は、さっそくタイミング法で妊娠を試みました。しかし妊娠には至らず、人工授精と卵管造影検査を行ったそうです。

「クリニックには定期的に通い、5回ほどだったと思いますが、人工授精に挑戦しても上手くいきませんでした。卵管造影検査も行いましたが、明確な原因は特定されませんでした。どうしてなのかと、駅前で泣いたこともありました。もう嫌だって」(美佐恵さん)

勇太さん自身も検査を行いましたが、特に大きな問題はなく、〝なぜ自分たちだけ子どもができないのか〟と考えることもあったと振り返ります。そうした中、2人は病院を変える決断をします。その理由について勇太さんはこう説明します。

「最初の病院が機械的な感じがあって、それが気持ち的に負担になっていたと思います。これを何回やってダメだったら次はこれねっていうのが、決められているように思えた。そこに人間味が感じられなくて。体外受精も勧められましたが、妻の意向もあって、やりませんでした」(勇太さん)

心身ともに疲れていたという美佐恵さん。夫婦ともにフルタイムで働いていたこともあって、一度不妊治療はお休みにしようと思ったと言いますが。

「挨拶のように〝まだなの?”と言ってくるのがすごく嫌だった」

「たまたま家から徒歩1分のところに産婦人科の小さなクリニックがあって、不妊治療が専門ではないのですが診てもらえたので。無理のない範囲でそこに通うようになりました」

病院を変え、排卵を促す注射なども含めたタイミング法を行いつつ、漢方薬や鍼灸治療などをしていました。

「鍼灸治療が自分としてはとてもよかったと思っています。治療自体もそうですが、話を聞いてもらえるのがとてもよかった。その先生は女性で、不妊の体質改善に力を入れている方だったので、治療中にじっくりといろんな話ができて、気持ち的にもありがたかったです」

実は、美佐恵さんには一連の不妊治療を相談する相手がほとんどいませんでした。同じく不妊治療を経験し、体外受精で子どもを産んでいた実の姉にこそ相談相手になってもらっていたそうですが、他方で友人に話したことはなく、職場でもすべて内緒で治療に臨んでいたと言います。

「会社は誰も知らない状態でしたので、有給をフル活用して治療をしていました。結局、その小さなクリニックでは妊娠には至らず、このままでは難しいかもしれないと、2駅となりにある大きな不妊治療の専門病院に通うことにしました。そこで再度、人工授精や体外受精をして、妊娠・出産に至りましたが、最後まで職場の人たちには何も知らせないままでしたね」

その後、美佐恵さんは転職していますが、2人目を出産後に退職するまで、誰も不妊治療を行っていたことは知らないそうです。その理由について、美佐恵さんは次のように続けます。

「割と古風な組織だったので、みんなの共通認識として、人生のレールみたいなものがありました。結婚したら、次は子どもができて、家を建てて、みたいな幸せな生き方ってこうだよねという固定概念ですよね。私も、当時はそれを疑っていなかったですし、誰かにポロッと話をしようものなら、一気に噂が広まるような組織でもあったので……。結婚したら、職場の方々が、〝まだなの?”〝考えてないの?”と挨拶のように言ってくるのもすごく嫌で、とにかく黙っていました」

より確率を上げるため、体外受精へと進んだ

近所の小さなクリニックから大きな不妊治療の専門病院に転院し、そこで人工授精から進めていくことにしました。その病院を選んだ理由は、家からの距離的な理由もありましたが、2人でいろいろと調べてみた結果でもあった、と勇太さんは言います。

「実績もあるようでしたし、それを裏付けるような成功報酬という料金体系を取っていました。成功報酬という部分で、自分たちの治療に対して自信があるのだろうとポジティブに考えました」

4回ほど人工授精に挑戦したものの、結果は芳しくなく、医師から体外受精を勧められるようになったと美佐恵さん。

「最初に体外受精に関する説明動画を見たことを覚えています。先生からも説明がありましたが、自分でも調べてみて、人工授精はあまり確率が高くないことがわかったので、より確率を上げるためにも体外受精に進んだほうがいいのかもしれないと、そんなふうに思いました」

一度に採卵できる数が2〜4個程度と少ない中で、注射によって卵巣を刺激して採卵するという一連の過程を、4〜5回ほど行ったと言います。

「最初の2回は一般的な体外受精で、3回目と4回目は顕微授精をして、顕微の2回目(合計4回目)で成功しました。毎回、受精卵はできていて、最初の3回は着床までいかなかったと記憶していますが」(勇太さん)

一方で、美佐恵さんは、「流産経験自体はない」と話したうえで、こう言います。

「一度の体外受精で子宮に戻せる状態の受精卵が1個できるかできないかっていう感じだったと思います。なので凍結保存もほとんどできませんでした」

約4年におよぶ不妊治療の中で心に残る2つのエピソード

2度の転院を経て、妊娠したのが32歳、出産時には33歳になっていました。29歳になる直前に不妊治療を開始したので、約4年近におよぶ道のりでした。その間、今でも印象に残っている2つのエピソードがあると言います。1つは妊娠がわかったときのこと。
もう1つは勇太さんに関すること。翌日に採卵があり、就寝前に注射をしなければいけないのに、注射器がなぜか見つからなかったときのこと。

「病院側の確認ミスで、注射器が1つ足りていなかったんです。毎日、採卵の日のために痛い思いをしながら注射しているのに、なんで?って頭がパニックになってしまったのですが、たまたま出産もできる大きな病院だったこともあって、夫がすぐに病院に電話を入れ、車で病院に向かって受け取りに走ってくれました」

「僕は不妊治療に協力しているつもりはなくて、本当に一緒にやっている、自分も当事者であるという意識だった」と勇太さんは言いますが、美佐恵さんはこう続けます。

「それまでも、基本的に1人目のときはほぼ病院についてきてくれたり、食事のサポートをしてくれたりしていましたが、このときはとても頼りになると感じましたね」

「陽性の結果を聞いた帰りの車の中で、夫の横で大泣きしました。今までの苦労がやっと報われた!って。試験勉強みたいに、頑張ればテストに合格できるようなものと違って、いくら頑張ったとしてもゴールにたどり着けるわけでもない。ある意味、それは人生で初めての経験だったわけですし、夫婦になって初めてぶつかった壁でもあった。いろいろ辛かったけど、やっと実を結んだと思ったら、涙が止まらなくなってしまったんですね。まだ陽性がわかっただけで、心拍確認をしたわけでもないときだったのですが」(美佐恵さん)

次回(中編)では、4度の転院を経験した2人目の不妊治療についてお聞きしていきます。

※本インタビュー記事は、不妊治療を経験した人の気持ちや夫婦の関係性を紹介するものです。記事内には不妊治療の内容も出てきますが、インタビュー対象者の気持ちや状況をより詳しく表すためであり、その方法を推奨したり、是非を問うものではありません。不妊治療の内容についてお知りになりたい方は、専門医にご相談ください。


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